教科書の記述はあったとして、たった一行の戦い
浅井長政、といえば、戦国ファンには馴染の深い戦国武将ではないでしょうか。
- 織田信長とともに天下を夢見
- 信長の妹で絶世の美女・お市の方とのロマンス
- 信長VS朝倉に巻き込まれ、信長から離反し朝倉と共闘
- 姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗北
- 家臣の離反で徐々に狭まる包囲網
- 小谷城での籠城戦では、お市の方と3姉妹(茶々・初・江)を逃がし
- 再三の開城の要求にも応じず、最後は天下の名城小谷城を枕に討ち死に
ですが、これが歴史の教科書にはほとんど登場してきません。登場したとしても一瞬「織田信長は勢力拡大の過程で、北近江(今の滋賀県)の浅井長政や○○を攻略し……」のような完全な脇役の扱いを受けています。
教科書で、安土桃山時代など、一瞬で終わってしまいますが(織田信長→豊臣秀吉→徳川家康…終了!)、いつも思うのは「教科書以外にはたくさん面白い本が溢れているのに、なぜ、日本史の教科書はつまらないのか??」ということでした。
理由は遠くから眺めすぎているから?
理由はいくつもあるかと思います。
- 勉強の目的がテストで点数を取るためだから
- とにかく強制させられて勉強させられているから
- 歴史が好きな人が先生をやっているとは限らないから
- 教科書自体が、出来るだけ「事実」を中心に書こうとしているから
- 生徒が求められるのは、教科書の暗記だから
- 限られた時間で過去~現代までを終わらせなくてはならないから ……などなど
理由を考え出すと、日本史の教科書を面白く感じるのは難しそうです(苦笑)。
ただ、一つの共通点は「物事の"登場人物"を感じられる距離感で見ていないから」ということです。
浅井長政…、彼が見ていた風景、一緒に過ごした家族・近しい家臣、追い詰められた最後の日々…それを想像することは、もうできないのでしょうか?
日本の五大山城に数えられた難攻不落の名城・小谷城
浅井長政の居城の小谷城は、天下の堅城として名高い小谷城でした。
しかし、ジリジリと勢力を拡大する織田信長に圧迫され、居城の目の前数百メートルほどに出城(攻略の足掛かり・虎御前山城)を築かれるなどしながらも、必死の籠城戦を展開していました。
彼は、義兄・織田信長(信長の妹であるお市は浅井長政の妻)との戦いをどのような思いで指揮していたのでしょうか。そして、兄と敵対することとなってしまったお市は麓に展開する故郷の兵をどのように見つめていたのでしょうか。
↑のジオラマの上部に位置するのが小谷城、下部に位置するのが出城として築かれた虎御前山城です。
資料館脇にある小谷城の絵図ですが、山の稜線に沿って逆Uの字状に防衛施設が配置され、逆Uの字の内側の谷には、寺や家臣の屋敷が立てられています。
そして、この小谷城、よくよく絵図を見てみると、構造も面白く見えてきませんか?
城の中心部である本丸が意外と低いところにあります。↓のジオラマの写真も見比べてみてください。
このように、本丸よりも高いところに、いくつも防衛施設が作られています。そして、逆U字の要に位置し最も標高の高いところにも「大嶽城(おおづきじょう)」が築かれています。↓は、航空写真による、各防衛施設の位置関係です。
そして、面白いことに、この図の大嶽城、福寿丸、山崎丸に関しては、窮地に陥った浅井氏の救援に駆け付けた朝倉氏(本拠地・福井県)の軍勢が築城し、駐留したともいわれています。浅井氏の本丸よりも高所に援軍が駐留していたというのも、想像すると、面白い所です。
小谷城の戦いの推移。まさか浅井氏の同盟者(朝倉氏)が先に滅亡?
織田信長は最後の決戦に臨み30,000の軍勢を率いて岐阜を発ちました。
一方、浅井側は、5,000の兵で籠城。同盟者の朝倉氏は、福井より20,000の軍勢を率いて救援に駆け付け、小谷城の北部に陣を構え、大嶽城、福寿丸、山崎丸に入ります。
最後の決戦に向けて、両軍、準備は整いました。
そして、小谷城を巡る戦いの経緯も、特異なものとなります。
なんと、救援に訪れたはずの朝倉氏が、浅井氏よりも先に滅亡してしまうのです。
まずは、織田信長本人が動きます。嵐に乗じて、油断していた大嶽城を山の北側斜面を一気に駆け上り急襲、奪い取ってしまいます。
驚いたのは朝倉本陣。状況不利とみて福井に撤退を始めます。
しかし、織田の追撃が待っていました。そして、執拗な追撃は、援軍を追い返すだけにとどまらず、朝倉氏の本拠地一乗谷(福井北部)まで追い詰め、ついには朝倉氏を滅亡させてしまいます。
まさか援軍に来た朝倉氏が先に滅亡してしまうとは浅井長政も想像していなかったでしょう。
長政は、本丸から大嶽城をどのような気持ちで見上げ、そして包囲している軍勢を見下ろし、朝倉滅亡の報告を聞いたのでしょうか。
小谷城落城の時も近づいてきました。
次は、木下秀吉(後の豊臣秀吉)が攻略の契機を作ります。
まずは、逆U字の内側・清水谷を占領します。そして、夜陰に乗じ、谷から3,000の兵で駆け登り、本丸の上部に位置していた京極丸(↓地図)を落とします。浅井方は、織田勢は清水谷の入り口の出丸より進軍してくると思い防御を固めていたことでしょう。しかし一夜明けてみれば、城の中枢が落とされていたのです。
この時、浅井長政は本丸に、長政の父である久政は京極丸の北側・小丸にいました。親子の連携は、秀吉の京極丸急襲により途絶えてしまいました。
本丸から京極丸までは目と鼻の先。秀吉も攻略した京極丸には登ったのでしょうか。そうであるなら、本丸の長政と顔を合わせていたかもしれませんね。彼らは睨み合ったのでしょうか、その視線にはあきらめが混じっていたのでしょうか、どんな言葉をその視線で交わしたのでしょうか。
難攻不落の小谷城。籠城戦、最後の数日。
京極丸を落とされ、小谷城も最後を迎えます。京極丸を落としたのが8月27日…そして、長政自害は9月1日。浅井家滅亡まで、あと数日です。
こちらも併せてどうぞ
愚将・今川氏真。桶狭間の後に受けた屈辱。…でも見方を変えれば、彼は戦国の名将!
まずは、小丸に籠る久政を自害に追い込みました。そして、ついに長政です。長政は息子・万福丸を密かに場外に逃がします。
万福丸はどこから場外に逃れたのでしょう(周りは織田軍に包囲されています。本丸の東側から山沿いに北に逃れていったのでしょうか)?
また、お市の方と3人の娘を織田軍に引き渡します。最終的に万福丸は捕まり処刑されてしまいますが、お市の方と3姉妹は生き延びることができました。(その後、お市の方と3姉妹はそれぞれに数奇な運命を辿りますが、今回は割愛)
最後の日、長政は本丸より打って出ます。しかし、それも最後の抵抗でした。万福丸の逃走を助けるための陽動の意味も込められていたのでしょうか? 包囲され、本丸に戻ることもできず、最後は本丸の東に位置する赤尾屋敷に後退。切腹し生涯を閉じました。享年29。
彼が最後に思い浮かべたのは、誰だったのでしょう。
ここに、籠城を続けた浅井長政もついに散り難攻不落を誇った小谷城も落城しました(小谷城の戦い(Wikipedia))。
現在、小谷城は現在の形を残してはいません。木々に覆われてしまっています。それでも、現在も遺構から当時の姿を想像することはできます(小谷城/日本の城写真集)。
歴史の教科書として書かれている一行の中にも、そこに生きている人たちを感じられる距離感まで近づけば、単なる暗記物として捉えていた日本史が、また違った姿を現してくれます。
このようなことは、私たちの日常のあらゆるところに存在しているのかもしれません。ほんのちょっとだけ、意識を向けて、調べてみるだけで、物事のとらえ方や感じ方が一変するかもしれません。
ほんのちょっとだけ……今まで、当たり前すぎて通り過ぎていた物事に、興味すら持たずに視界にも入らなかった物事に、目を向けてみるのもいいかもしれません。
★今日の試してみたいことメモ★
- 今、目の前にあるものを手に取ってみる。
- それの「成り立ち」や「開発秘話」などを検索してみる。
- 自分の感じ方が、どのように変わったか(それとも変わらなかったか)観察してみる。